龍ノ経
RYÛ NO KYÔ
[DRAGON SUTRA]
二台のピアノに依る異類功徳譚
Irui-Kudoku-Tan for 2 Pianos
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もうひとつのモノガタリ
昨夏8月ヤマハホールでの当方の個展「そらのおと うみのいろ」を聴いた直後の森下唯さんから熱っぽくも周到な委嘱の打診を受けた。やがて届いた“異形たちの輪舞曲”なるテーマを知ったほぼその瞬間、我が脳内の松果体の底の阿頼耶識の方角から沸々と水泡たてつつ、悉達多らしき沙門が太古より日本群島海底に蟠る龍王を訪う様を伝える漢訳梵語の秘経あり、との現想が来た。その余りの反時代ぶりに半ば呆れながら、示されたテーマと響きあうより軋みあおうと肚に決め探究を進めるうち、風土や尊厳が死に瀕した今日に於ける龍信仰のアクチュアリティに戦慄し、渾沌と調和を自在に纏い地と天を結ぶ龍の思想に感染し、気づけば私は、失われた東洋のハーモニーを措定し陰陽の象形たる二台ピアノを依代に据え、長大な持続を成して鳴り響くもうひとつの龍宮訪問譚を精神と技術の極限で問うてみたいと希っていた。
そこで私は日本諸島の海の淵に沙門と成って潜り込み、靄の先の闇に向かって龍兮龍兮と呼びかけると、やがて徐に龍王が応え龍宮の大門は開かれた。天神地祇諸仏菩薩の大群衆が見守る中、森羅万象司り天変地異を惹き起こす恐るべき龍王に沙門は命懸けの問いを挑み、怒れる龍王は時にグロテスク或はユーモラスなまでに変幻する身を以て答え、ふとおとずれた沈黙を破って、遂には嵐の如く全てを捲き込み海底から雲上へ昇り全天鳴動…と思えばいつしか轟々と雨が降っている。まるで夢や音楽のような非言語霊語りの思いがけない展開に、私は命からがらしがみつき、五線式経文に認め、変わり序破急の一巻に封印、「龍ノ経」と名付けて阿吽のピアノ二台に託した次第である。
序:訪問/破:論義/間:絶語/急:乱舞/頂:歓喜/式:回向/結:祈願
(願わくば水の如く融通無碍な龍の功徳を以て世に蔓延る論理と情念の不毛なる二項対立から風調の力で感覚を解き放ち美しい囮たる言葉の罠を潜り抜け抽象と具象の閾を越えて響きと調べがきらきら鱗を散華しながら体現する色とりどり無尽蔵のモノガタリが聴く人の心の耳に届きますように)
記・平野一郎
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[委嘱]
IMAGINARC
[初演]
2024年6月9日 熊本市 健軍ホール 森下唯&江崎昭汰
2024年6月13日 東京都 豊洲シビックセンターホール 森下唯&江崎昭汰