ピアノソナタ第1番〈光人彷徨〉

Piano Sonata No.1 "LUCIFER'S PROGRESS"

 

 

 

平野 一郎 HIRANO Ichirô

 

ピアノ・ソナタ 第一番〈光人彷徨(こうじんほうこう)

 

 Piano Sonata No.1 Lucifer’s Progress”

 

左手と右手に依る二幕の黙示劇

 

Drama apocalypsis in 2 acts via Left & Right hand

 

2022-2023

 

 

 

イリーナ・メジューエワ委嘱作品 Comissioned by Irina Mejoueva

 

 

 

I闇巴髏乃(いんへるの) Inferno

 

II波羅以蘇(はらいそ) Paradiso

 

 

 

 この作品はイリーナ・メジューエワさんの委嘱に応えて作曲したものである。確か20216月、瀬田の唐橋辺りで夕食を共にした時、おずおずと控えめに「実はお願いしたいことがあるのですが」と切り出された。「どんな曲でも良いです、平野さんの書きたい曲を書いて下さい。でも強いて言えばソナタでしょうか。リストのロ短調ソナタとか〈ダンテを読んで〉位の本格的な今時にない長さと深さと大きさがあると良いです。どこかにフーガなどが出てきてもなお良いです」と、色々知り尽くした上での反時代きわまるご注文に胸躍り、悦び勇んで引き受けた。

 

 構想を始めるや否や、脳裏に両の眼をサーチライトの様にビカビカ光らせた光人ルシフェル(=キリシタン名じゅすへる)が天獄(てんごく)から降臨してきた。(そういえばルシフェルLuciferは元々“光luce(もた)らす者”という意味で、天を追放される前は神の第一の側近たる偉い天使だったのになあ)などと想いながら、彼に連れ立って擂鉢状(すりばちじょう)地獄(ぢごく)を底の底へと堕ちて行く内、その計画は既存のピアノ曲には滅多に見当たらない、言うなれば一人で奏でるヴェルディのディエス・イレ程の破格のスケールにあれよあれよと増長していった。

 

 ベートーヴェンの最後のソナタを踏まえた2楽章形式。七つの主題を持つソナタ形式に渦巻(うずまき)ヴァリエーション、螺旋(らせん)フーガ等々…本格着手して後は、敢えてするペダンティズムの鼻持ちならぬ毒気に当てられ、何度も底なし沼に落ちそうになりながらも全霊を賭して取り組んでいると、かつて訪れた生月島(いきつきじま)のキリシタンの祀りの記憶や、とある明け方ありありと観た東京・大手町の林立するビルの地底に眠る“ボリスの墓”の夢が、筆を不思議に導いてくれた。忌々しくもかけがえないコロナ禍の2020年以来患う“オペラ脳”のお蔭もあってか、予定調和と自由意志が己の内部で好きすっぽうに(せめ)ぎ合う内、驚くべき不条理劇がひとりでに編まれていき、産みの苦しみという煉獄(れんごく)を乗り越えて2023113日金曜日に完成した。

 

 産まれてきたのは、いわば音による本邦流の失楽園(しつらくえん)(第一楽章)と復楽園(ふくらくえん)(第二楽章)。天獄を追われた堕天使(だてんし)ルシフェルの果てしなき遍歴譚(ビルドゥンクスロマン)。始まりは魑魅魍魎(ちみもうりょう)うごめく阿鼻叫喚(あびきょうかん)坩堝(るつぼ)へ真っ逆様、終りはイノセントな極東のエデンから“予め不可能な救済”に挑み、パライゾめざす大群集と共にまさかの結末へ傾れ込む。

 

 振り返ってみれば、こんなにドラマティックかつヴィルトゥオーゾなピアノ・ソナタが21世紀日本発でアクチュアルに可能である事に驚きつつ、心の内外で壊れゆく世界のさなか〈アンドレイ・ルブリョフ〉(タルコフスキイ)さながらに有象無象(うぞうむぞう)を泥々に溶かし込み善悪の彼岸に鳴り渡る諸行無常(しょぎょうむじょう)の鐘の(こゑ)に急き立てられての作曲であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

I闇巴髏乃(いんへるの) Inferno

 

七つの主題によるソナタ形式に基づく楽章。予定調和の天獄から追放された自由意志の権化にして革命と啓蒙(けいもう)の寵児・光人ルシフェル(じゅすへる)が、魑魅魍魎を従えて阿鼻叫喚の(ちまた)跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する。概略は以下の通り。

 

 

 

Exposition(呈示)

 

Development(展開)α

 

Interlude(間奏)

 

Development(展開)β

 

Recapitulation(再示)

 

Climax(頂点)

 

Coda(結尾)

 

Exposition]漆黒の天の(とばり)の向こう側から何かが旋回しながら墜落してくる(第一主題:天幕)。世界の底に(したた)かに叩きつけられるや彼はすぐさま跳び上がり、天への叛逆(はんぎゃく)(とき)を上げる(第二主題:喇叭)。蠍形(さそりがた)聖痕(スティグマ)をギラつかせながら荒ぶる怒りに歯軋りし地団駄踏んで出陣する樣はさながら死の舞踏(ダンス・マカブル)そのものである(第三主題:舞踏)。金色の鶏鳴が鳴り渡るや、彼は凄まじい勢いで全世界の修羅の巷を(あしおと)高く駆け巡る(第四主題:勇者)。何かにハッとして足を止めると、瘴気(しょうき)漂う沼地の奥から古風な琴の音が聴こえ、暖竹(だんぢく)の群生の向こうを覗くと奇妙な集落が佇む。隠れ里らしき其処では人々が美しい歪みを帯びた独特の聖歌をひそひそ唱え、敬虔な祈りを訥々(とつとつ)と神に捧げている(第五主題:祈祷)。突然その願いが叶えられたかの様に、高い空から晴れがましい鐘の音が鳴り渡り、ギュスターヴ・ドレの絵の如く無数の天使の群れが(もつ)れあい天を飛び交う幻が現れる(第六主題:偽光)。胸を潰した主人公は「主よ憐れみ給え(キリエ・エレイソン)(きりえれんず)」と苦々しく呟く(第七主題:呪経)。   

 

この後、きな臭い戦場音楽(バッタリア)の如き[Development α]、冥府へ渡る舟歌(バルカローレ)の様な[Interlude]、忍び足の反行カノンに始まり魔術的な契機を経て偏執狂的な高まりを成す[Development β]、渦巻きながら逆流する[Recapitulation]、悲しみの大伽藍(だいがらん)の顕現[Climax]、弔鐘の響きと共に暗穴道(あんけつどう)磔木(はりき)負い引きずり歩く葬楽[Coda]と続く。

 

 

 

II波羅以蘇(はらいそ) Paradiso

 

七つの場面が遠心力で増殖しながら次第に多重化する渦巻ヴァリエーション(Spiral Variations)及び11音の蠍形主題による螺旋フーガ(Helix Fugues)に基づく楽章。無垢な魂が徐々に群れを成し再び天へと回帰するまで。概略は以下の通り。

 

 

 

Spiral Variations(渦巻ヴァリエーション){A0-B0-A1-C0-B1-A2-D0-C1-B2-A3-E0-D1-C2-B3-A4-F0-E1-D2-C3-B4-A5-G-F1-E2-D3-C4-B5-A6-X

 

Helix Fuges(螺旋フーガ){1-2-3-4-5

 

Apotheose(大団円)

 

Postlude(後奏曲)

 

東のエデンに遊ぶイヴ(えわ)とアダム(あだん)の無垢な対話A、疑うことを知らぬ信仰告白(クレド)(けれど)の十字を胸先に結ぶB、天使(あんじょα)の瞠目を示唆するC、蠍形の聖痕を背負った悪魔(じゅすへる)の肖像D、天使(あんじょβ)の歌う大河の如く朗々たる聖歌E、鳥も遊ぶ実たわわな智識の樹(まさん樹)F、地の極みから本当の天國を目指す群衆の歌(じごく様のうた)G   ソナチネの様に可愛らしく始まるも、以上七つの音楽が失われた膨大な蔵識を(さかのぼ)るように数珠繋ぎで巻き戻され、やがて退っ引きならない巨大な全貌の顕現へと導かれる[渦巻ヴァリエーション]。迷える衆生の救済の小さな兆し(小きりんと)が表れるや、そうはさせるかと躍り出た光人ルシフェルが全天への最後の闘いを挑む[螺旋フーガ]。次々と湧いては暴れ回る悪魔の軍勢を割って「まゐろやな ぱらいぞの てらにぞ まゐろやなあ」と徒手の群衆の歌が高まり響くと、虚空に開く門から巨大な光が現れ、人々は吸い込まれるように捲き上がり、天使の大群の様に縺れあって彼方に消えていく(大きりんと)[Apotheose]。謎めいた甕星(みかぼし)が妖しくギラギラと光った後、誰かが小さな花を手向けた墓の辺りには聖愚者(せいぐしゃ)の嘆きが(かす)かに漂う[Postlude]。

 

[委嘱]

イリーナ・メジューエワ

 

[初演]

2023年11月23日 京都コンサートホール小ホール イリーナ・メジューエワ(Pf)